ミチノスケのやったるわ!!

ミチノスケの紹介Introduction of Michinosuke

当サイト運営者兼主人公ミチノスケの
紹介ページです。

 数あるサイトから、ようこそいらっしゃいました。

 私は、このサイトの運営者兼主人公のミチノスケと申します。

 どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

 このサイト上での運営は、2013年12月からと浅いのですが、無料のブログを使い、企画である「ミチノスケのやったるわ!!」を始めたのは、2009年6月からとなります。

 

 企画自体は、大した内容ではありませんが、立ち上げ、開始してから、早10年を迎えることになりました。

 

 今回、紹介ということで、全体的に、過去(幼少期など)→現在(現状)→未来(将来の夢や目標など)という形でご紹介出来ればと思っていますので、どうぞ、最後までお付き合いいただければと思います。

 

幼年時代

 1984年、私は、インドネシア人の母と、日本人の父の間で生まれてきました。生まれた場所はインドネシアです。

 

 1歳の時、父の仕事の関係で、日本へ帰国することになります。

 

 その後、仕事で、和歌山に約半年、北海道の苫小牧に8ヶ月程住んでいたそうです。

 勿論、私は、記憶にございません。

 そのことは父から聞き、アルバムを見て、知りました。

 

 好奇心旺盛な子だと聞いています。

 特に、1988(昭和63年)~89(平成元年)年頃、幼稚園の時の話です。

 

 東京のとある保育園に通っていたある日、エアコンをジ~っと見ていた私は、何を思ってか、それを作ろうと思ったのです。

 

 家に帰り、さっそく取り掛かり、それらしいものが完成。

 部屋の隅の天井に、ガムテープでペタペタと貼り付け、父の帰りを待っていました。

 

 その作品を見せるや否や、叱られてしまいました。

 なぜ叱られたのか、疑問に思い、その後、父はその作品を取り除きます。

 見ていた私は、なんと、部屋の壁紙まで剥がれてしまったことに、驚いてしまいました。

 

 今となっては笑い話です。

 

 色んなものを作り、見様見真似でなんでもやっていた。

 そんな、幼年時代でした。

 

学生時代

小学生

 1990年(平成2年)、小学校に上がるとき、またも、父の仕事の関係でインドネシアへ行くことが決まります。

 これは、私の記憶にも残っていますが、東京にある小学校の入学式へ参加しました。

 ですが、それだけ参加し、私は、インドネシアにある日本人学校へ転校したのです。

 

 学校までの距離がえらく遠いため、通学は自家用車を使って通学していました。

 それも、運転手つき。

 

 小学校4年辺りから、早くもグレてしまいます。髪の毛にパーマをあて、登校時、周りから、驚かれます。

 この頃から、勉強についていけず、少しばかり、学校へ行くことが憂鬱になってきていたと、記憶しています。

 

 たまに、ずる休みしたこともありました。

 

 特に、小学校6年では、勉強がついていけない上、担任のものの言い方や、私に対する対応が気に食わなかったこともあってか、遅刻、ずる休みが多発してきます。

 

 今思えば、小学生の中で、この時が一番思い出のない、ブルーな時期でした。

 

 しかし、一方で、そんな時期でも、私は、唯一の救いはありました。

 それは、好きな子ができた、ということ。

 

 同じクラスにいた彼女に直接、ではありませんでしたが、ラブレターを出したこともありました。

 数日後、彼女からも、友人経由で私宛に返答をしていただきました。

 

 あえて、答えはここには書きませんが、そんなこともあったなぁ、と、今、思い出に更けています。

 

中学生

 中学1年は特に思い出はなく、話は中学2年の時になります。

 担任だった先生は、確か大阪出身の方だと記憶しています。

 

 当時、文化祭で何をしようか、クラス全員で決めたところ、新喜劇をやることに決定しました。

 配役として、私は当時、クラスの中で一番背が小さかったこともあり、池〇〇〇〇さん扮する親分という役に、とんとん拍子で決まっていきました。

 本番当日、お決まりである、ネクタイの長さが自分の身長と同じや、という、所謂、ギャグに、客席が大爆笑したのを、今でも覚えています。

 

 しかし、そんな楽しい出来事もつかの間。

 その数か月後に、私の母は亡くなったのです。

 

 私は、夏休みというタイミングもあり、父とともに日本へ帰国し、祖母に育てられることになります。

 学校は、ここ大阪にある、地元の中学校へ転校することになりました。

 そこで初めて、やってさんと出会います。

 

 この時期に、尿検査でひっかかり、入退院を繰り返した結果、腹膜透析を導入することとなります。

 

高校生

 結局、勉強の方は、相変わらずついていけないうえ、大病を患って透析を導入したこともあり、あまりよろしくない高校へと進学。

 

 しかし、高校1年の途中辺りから、腹膜透析ではうまく治療できなくなり、結果、再入院。血液透析を導入することになります。

 暫くは、腹膜透析と血液透析を兼用で行っていきます。

 

 高校時代は、あまり、良い思い出がなく、無事に卒業します。

 

成人時代

 高校卒業後、私は就職せず、ひたすら、アルバイトとして働きながら、自分の進路を模索していきます。

 

 この間、兼用していた透析は、血液透析での治療が安定してきたこともあり、腹膜透析を中止。入院し、お腹から腹膜に通していたカテーテル(管)を除去します。

 

 その後は、血液透析一本で、今日こんにちまで続いていきます。

 

 アルバイトの中で、とあるレンタカー屋の配送作業をしていた際、私に様々な不運が襲ってきました。

 

 自分で考え、上司にも相談したところ、四国のお遍路巡拝へ行くことを決意。

 2009年6月、それがきっかけで、この企画「ミチノスケのやったるわ!!」が始まりました。※サイトの経歴について、詳しくは「サイトヒストリー」ページをご覧ください。

 

 無事に終わり、帰宅後も、様々な職種を転々とし、とある自転車屋のサイト更新、修正作業にたどり着きます。

 

 これをきっかけに、その道で働こうと思い、就職活動に専念します。

 

 2011年の末、何度か面接をしましたが、採用されることはありませんでした。

 その後、まずは、ビジネスマナーやスキルを身に着けようと思い、インターネットから情報を探した結果、障がい者の職業訓練校へ行くことに決めます。

 

 2012年1月、試験と面接を行い、一度は落選通知が届いたものの、のちに、合格通知が届き、訓練校へ入校します。

 

 様々な訓練を受けながら、企業の合同面接会へ参加。

 その中から、一社に絞り、見事、採用通知が届きました。

 

 2013年3月、無事に訓練校も卒業し、4月には晴れて、社会人となります。

 

就職~次のステップへ

 中途採用で入り、契約社員からのスタート。

 中途ということもあり、即戦力を問われた私に対し、上司から、自社サイトの全面リニューアル作業を任されます。

 

 先輩方のお力も借りながら、無事に、リニューアルすることが出来ました。

 その後、私は、契約社員から正社員になり、更なる勉強もし、業務をこなしていきます。

 

 ところが、入社して約1年半が経った頃、寝たきりになった祖母や、個人の疲労、等々が原因で、会社を退職することになります。

 

 このままではいけないと思い、ハローワークへ行き、再び、職探しを行います。

 

 中々、希望、条件に合う就職先が見つからず、自分ができることを考え、まずは、ある場所に営業の電話をかけることにします。

 

 この、一か八かの賭けが当たり、仕事をいただくことになりました。

 これを機に、個人事業に関する勉強をしはじめ、ある程度、知識が身についたところで、2017年6月、個人事業を始めることになりました。

 

現在

 今でも、件数は少ないながらも、地道に個人事業を継続。

 また、最近では、インターネット上にあるサービスを通じ、Webデザインだけでなく、ポスターやチラシデザイン等の仕事にも積極的に参加しています。

 

 また、病については、生まれつき腎臓が悪く、人工透析を導入し、19年経った今も継続中です。

 導入当初、穿刺に、かなり参ったご様子で、来る日も来る日も、苦痛を味わっていましたが、今では、多少の大小はあれど、大した苦痛はなく、元気でやっています。

 

 いやはや、慣れというのは恐ろしいものですな。

 

将来の夢や希望

 こんな、ミチノスケと同じ境遇の方、もっと言えば、そのご家族、兄弟、親せきや友人の方に対しても、このサイトを通じて、元気をお届けできたらいいな、と、思っています。

 

 また、希望もあるかもしれません。

 皆さんの中に、記憶に残るような、そんな企画になっていればなぁ、と、切に願っています。

 

 長々と書いてしまいました。(長いわ!)

 どうぞ、これからも、長いお付き合いをお願いいたします。

 

2019年4月修正

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